
日本人は「ネイティブか否か」にこだわりますが、海の向こうでは事情が違っていると思います。
英語圏も含め、英語が国際共通語として使われる地域で、よく判断基準にされるのは次のような点です。
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- Articulate or not
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- Confident or not
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- Speak well or not
注:「speak well」は「きちんと話ができる」ことを指し、ペラペラおしゃべりができることとは異なる。
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- “He’s confident.”
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- “She’s a great speaker.”
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- “He’s an excellent communicator.”
こうした評価を得られるように、英語圏においても、英語ネイティブ達がコミュ力を磨くため様々な努力をしています。上記のような「伝え方の優劣」での判断はされても、「英語ネイティブか否か」が話題に上がることはないです。通じてさえいれば。
生まれながらに決まってしまうこと(英語ネイティブか否か)や、親の職業・経済力に直結すること(未成年時代の海外経験や留学など)と違い、コミュニケーション能力は努力次第で上達するものです。自らの努力で高められる能力です。
- ペラペラしゃべるのは、どの言語であれ母国語であれば誰でもできること。
- きちんと話すことができ、堂々とコミュニケーションでき、結果を出せること。これはどの国に生まれ落ちようと訓練が必要です。
大人の学習者の場合は仕事で必要な場合が多いので、後者のきちんと話せる・コミュニケーション能力が求められていると思います。こちらに焦点をあてて訓練すれば、ペラペラしゃべりは、それを崩すだけなので、副産物としてできるようになります。でも、その逆は簡単ではないです。だからこそ、英語ネイティブであっても「きちんと話す」の訓練を受けるわけです。私はそちらの方の支援をしています。
英語は人生の可能性を広げるパスポート
英語のリスニング力やスピーキング力は、人生の軌道を大きく変え得る力があることを考えれば、そこに投資する価値があります。
大切なのは、ネイティブのような発音を獲得することではなく、「伝わる英語を自信を持って話せるようになること」 。後者を優先し発音矯正はコスパの良いものに集中させる方法が、圧倒的に効率性が高く、人生のゴールに早く到達できますよ。
ゴルフ場を想像してみてください。
遠くに見えるゴール。その前に点在する障害物。
英検やTOEIC などのテストはゴールか、それとも障害物か?
「こういう人生を送りたい」「こういうキャリアにしたい」「こういう人みたいに〇〇ができるようになりたい」といった大きなゴールを目指していれば、結果的にテストで評価されるテクニカルな技能も制覇できてしまうのです、副産物として。
「なりたい自分」に近づきたい、とどれだけ強く思うかが鍵。10年後とか「いつか」ではなく、近い将来に実現させなければ、その後の軌道が全く違うものになってしまいます。
ネイティブに拘り過ぎると大事なものを見失う
日本語ネイティブであっても、コミュ力が低い、きちんと話すことが苦手な人がいますよね。同じことが英語圏でも当てはまるのです。いわゆる「発音が綺麗」であることと「コミュ力が高い」ということは必ずしも比例しないんです。
私の同僚で、東南アジアおよびアラブの出身者でなまりが強いけれど、コミュ力が高い人がいます。英語ネイティブ達を凌駕し、上昇・成功しまくっています。オーストラリア在住ですが、家庭で母国語をしゃべっているのでなまりが消えないようです。しかし、本質的な部分で(発音の綺麗さとは無関係な次元で)、見事に国際規格になっているんです。英語ネイティブ達が悔しがるほど飛翔し続けています。外国語である英語でそこまでできるというのは秀逸です。でも、日本人だってできることです。マインドセットさえ変えれば。
ネイティブ信仰が強いから、そういう発想すら出てこないのです。
皆さんに送りたい言葉は以下の通りです。
- ネイティブか否かや、発音の綺麗さよりも遥かに大事なことがある。
- 悔しさもエネルギーに変換できれば、大きな原動力になる。
- 真のゴールを、テストなどのテクニカルなことに設定して満足しない。ゴールの対象は、情熱を注げるものにする。
- 生まれながらにして決定する因子でなく、努力次第で確実に向上するスキルの向上に着目する。劣等感を感じる必要はない。虚栄心は毒だが、プライドはもつ。
- 読み書きはできるけど聴く話すがダメ、ならば諦めないで。自分の可能性を信じて。
ネイティブスピーカーの英語教師について
私の経験では、13歳位までの子供さんだったら良策だと思います。ただ、大人になってから 聴く・話すを身につけたい方にとっては、費用対効果が悪いと思います。
私は、高校時代に英語ネイティブの教師の授業を受けていましたが、”Repeat after me” は効果なかったです。「Morning bells are ringing 」をいくら聴かされても「もりながリンリン」にしか聴こえませんでした。
「この世の中は50音で出来上がっている」と教育された脳に、50音以外の音を識別しろと言われても無理です。仮に、50音以外の音を認識できる様になったとしても、日本語を使い続ける限り薄まってしまう。つまり、アクセルとブレーキを一緒に踏んでいる感じになっていまう。
理由1:
日本人同士で理解し合うためには、間違ったカタカナ英語の発音にわざわざ戻す(改悪)ことをしないと、日本語コミュニケーションが成立しない。
例)日本人相手に「ヴォイス」と書いたり言ったりすると、変な目で見られる。
理由2:
日々ローマ字入力しますよね?英語音として間違った打ち方を敢えてしないと、カタカナ英語を表記できない。LのものもRと打つ、VのものもBと打つ。
「シ」は si で変換されるので、シ = /si/ だと思い込んでしまう。なので sea vs. she の区別がつかない。sit と言っているつもりなのに、別の下品な言葉に聞こえてしまう。
ロー、ボイス、ノベル、コード、コート等、意図する word の正しい発音からかけ離れた音声に敢えて変形させないと、日本人同士で通じない。英語としての正しい発音に対して、日本人同士で通じ合う為の間違ったカタカナ発音を1対1のセットでいちいち記憶しなければならない。
「ロー」は low, law, row, raw のうちどれを意図するかによって、口の中の動かし方が違うのにそれを一緒くたにせざるを得ない。「コード」も、code /kɔːd/ vs. code /kəʊd/ のどちらを意図するかで発音が違うのに、カタカナ英語では一緒くた。「ゴール」もゴウル /ɡəʊl/ の方が近いがゴールと敢えて表記しないと日本語として通じない。「オーストラリア」「サラブレッド」「インターネット」「ログイン」等、カタカナ英語は日本語だと思った方がいいです。
「とうきょう」と書け、でも「とーきょー」と発音しろ、と教育されている脳は、二重母音に鈍感です。仮に、英語の二重母音をせっかく身につけたとしても、オウと発音すべき時にオーと間違った発音をしなければ、日本人同士で通じないという現実がある為、両言語を行き来しているうちに、正しい英語発音がどっちだったかわからなくなってしまうのです。
英語のもつ豊富な音の種類を、たったの50音に押し込めるのは無理がある。だから発音矯正は大事です。ただ、コスパの高いものに焦点を当てること、大きなゴールに向けて本質的なコミュ力向上を目指すことに集中することをお薦めします。
「ネイティブ」性にこだわると、本質的ではないものに時間と労力を奪われてしまう。その結果、本来の目標(英語で議論、交渉、チーム管理ができ、信頼関係、友好関係を築ける等)から脱線してしまい、遠回りだったとハッと気づくと定年間近、等とならないように・・
優先順位を見直してみよう
聞こえの良さやカッコよくしゃべりたい、を優先することで本質的なものが見落とされてしまう。聞こえの良さはイマイチでも、本質的な方を重視する人の上達度合いは圧倒的に早いです。
カッコよさは二の次。まず国境を越えたコミュニケーションができるようになることが大事。前出の、なまりが強い東南アジア人とアラブ人の同僚達が、英語ネイティブ陣を凌駕し空高く飛翔する姿が良い実例。日本人の多くは、残念ながら逆の順序でやっているから、結果が出ないのだと思います。そもそも難しいことなので、戦略と戦術は周到に。
コミュ力の自信がついてきてから、聞こえの良さの訓練を始めればいいのです。余裕がある上でカッコよさを追求するのは、好みの問題なので。
私がどの様にして「もりながリンリン」状態から、欧・米・豪で30年間、日本人と無縁な場所でキャリア追及してきたか。良くも悪くもプライドが高い若者だったので、努力で変えられないこと(英語ネイティブでないこと)で引け目に感じることは一切ありませんでした。対等に扱われていないな、と感じたことは勿論あります。でも、悔しい思いをした時は、一体どうしたら潮目を変えられるか、を考え試行錯誤し続けました。
うまく行ったこと、うまく行かなかったこと、両方あります。
なので、もし今から人生をやり直せるとしたら、違うアプローチをします。そういった学びの成果を、前途有望な皆さんと共有していこうと思います。